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神奈川簡易裁判所 昭和53年(ろ)57号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は次のとおりである。

(一)  主たる訴因

被告人は、昭和五二年二月四日午前七時五五分ころ、神奈川県公安委員会が道路標識によって、左折禁止の場所と指定した、横浜市神奈川区片倉町六〇五番地先交差点において、普通乗用自動車を運転し、左折進行したものである。

(二)  予備的訴因

被告人は、昭和五二年二月四日午前七時五五分ころ、神奈川県公安委員会が道路標識によって左折禁止の場所と指定した横浜市神奈川区片倉町六〇五番地先交差点において、前方の道路標識の表示に注意し左折禁止の場所でないことを確認して運転すべき義務を怠り、同所が左折禁止の場所であることに気づかないで普通乗用自動車を運転左折したものである。

よって、右について審究する。

二  公訴事実に関して認定した事実

(一)  本件交差点に設置されていた標識等について

《証拠省略》によると、昭和五〇年一月三〇日付神奈川県公安委員会告示に基づいて、同年二月末頃、本件交差点の手前左側路端に、左折禁止標識(以下これを第一標識という)が設置され、これと同時に、被告人車両の直進方向、出口左側角の路端に設置された信号機柱上部の信号灯の左側に、左折禁止標識(以下これを第二標識という)が設置されたこと、なお、被告人が直進してきた道路は、三ツ沢方面にかけて、当時道路拡張工事中であって、その工事のためか、或はその他の何か原因は明らかではないが、昭和五一年後半頃に、右第一標識が欠除するに到ったこと、その後、所轄神奈川警察署担当者が、右欠除した第一標識の補修設置の上申を繰返した結果、同五四年七月半ば頃、右第一標識が再び設置されるに到ったことが認められる。

再度設置された第一標識の状態は、《証拠省略》のとおりである。

なお、右の標識は、何れも補助標識によって、規制時間が七時から八時三〇分までの一時間半であり、バス、ハイヤー、タクシー、二輪を除くとなっていることが前記証拠によって認められる。

(二)  《証拠省略》を総合すると、第一標識は、道路交通法(以下道交法という)第四条第五項の委任に基づく総理府令・建設省令である道路標識、区画線及び道路標示に関する命令第二条別表第一指定方向外進行禁止(311―A~E―以下これを単に標識令という)の設置場所欄に符合して設置された標識であり、右標識令別表一の備考二記載の事項に該当しないものであること、第二標識は、右標識令に符合しない場所で、道交法施行令(以下施行令という)第一条の二第一項により公安委員会が「前方の見やすい場所」に当るものとして設置したものであることが認められる。

(三)  前記(一)記載の事情から、本件発生時本件交差点には、第二標識のみが存在していたに過ぎなかったのであり、その設置状態(大きさ、高さ等)については、《証拠省略》に示すとおりである。

(四)  本件発生時の被告人の走行状態及び検挙時の状態について《証拠省略》を総合すると、被告人は、本件交差点の手前において、マイクロバスに続いて信号待ちしていたが、マイクロバスのため前方の視界が遮られて進路前方の信号機が見えなかったので、反対側の信号が赤に変ったのを見て、自車の進路の信号が青になったのを知り、マイクロバスに続いて左折したところ、取締に従事していた警察官十時毅志にこれを現認されて検挙されるに到ったが、その際、被告人が前記第二標識の存在に全く気付かなかった旨を述べたため、右十時毅志は、被告人を伴って標識を確認するため、本件交差点まで戻ってこれを確認させた後、近くの交番において交通事件原票を作成したこと、その後被告人が反則金を納付しなかったことが認められる。

三  検察官及び被告人・弁護人の主張の要旨

(一)  検察官の主張の要旨

検察官は、本件当時、交差点には第二標識のみが設置されていたに過ぎず、これが標識令に符合して設置されたものでないことは認めたものの、右第二標識は公安委員会がその権限に基づいて設置したものであるから、被告人はこれに従う義務があるとし、後記四の(一)(イ)(ロ)記載の裁判例を引用し、被告人作成の履歴書や、本件交差点を過去に通過したことがある旨の被告人の供述を総合して、主位的訴因である故意による違反は立証されたと主張し、仮にこれが認められないとしても、被告人は本件交差点で第二標識を確認することが可能であったから、予備的訴因である過失による違反の責任は免れ得ないと主張しているものである。

(二)  被告人・弁護人の主張の要旨

被告人・弁護人は、公安委員会は道路標識を設置する権限を有するが、その設置は標識令に従って設置することを要するのに、本件の第二標識は、標識令に違反して設置されたもので違法な標識であり、被告人はこれに従う義務はなく、無罪であり、仮に、第二標識が有効で規制に服すべき義務があったとしても、検挙時における態度で明らかなように、被告人には故意はない。

過失の点についても、被告人は、交通渋滞の本件交差点で、マイクロバスの後に続いて走行しており、第二標識は、人間工学の要求する「適切な場所にあること、誘目性、視認性、可読性があること」との条件を満さない標識であって、見やすいとは言えず、このため、第二標識を確認することができなかったものであるから、過失はなく無罪であると主張している。

四  本件交差点における第二標識の規制力の有無について

(一)  問題は、第二標識が規制力のある標識であるか否かである。

ここでいう規制力とは、違反者に対して罰則を適用して、標識の指示に従わしめる強制力を意味する。

そこで、先ず標識の法的根拠から検討を始めることとする。

道交法第四条は、公安委員会の交通規制について規定し、第一項において、公安委員会が政令で定めるところにより、道路標識等を設置、管理して交通規制をなす権限を有する旨を規定し、第五項は、「道路標識等の種類、様式、設置場所、その他道路標識等について必要な事項は、総理府令・建設省令で定める」と規定している。

即ち、道交法第四条第五項は、道路標識等について必要な事項を総理府令・建設省令に直接委任した規定であり、この受任規定として、「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令(昭和三五年総理府・建設省令第三号)」が定められているのである。

一方、道交法第四条第一項に基づく政令である施行令第一条の二第一項は、道路標識の設置及び管理について、公安委員会が、「歩行者、車両又は路面電車がその前方から見やすいように、かつ、道路又は交通の状況に応じ必要と認める数のものを設置し、及び管理してしなければならない。」と規定している。

道交法から直接委任を受けている標識令は、その厖大な内容に示されるように、如何なる道路において、如何なる標識を如何なる場所に設置すべきかについて、具体的に規定しているものであって、公安委員会は施行令により標識の設置、管理の権限を有するも、設置する標識の種類や設置場所の選択の自由はなく、標識令に従って、それに符合した設置をしなければならないものであると解される。

若し、右のように解さず、公安委員会が、見やすい場所であれば適宜標識を設置することが許されるとするならば、各公安委員会によって、設置場所や種類を異にした標識が設置され、規制の内容もまちまちとなって、全国的な統一を欠く可能性があり、交通秩序の混乱を惹起する虞れが生ずることとなる。

しかして、公安委員会は、施行令第一条の二第一項により標識設置の権限を有するから、標識令に符合した標識(本件の第一標識)を設置すると共に、これと同一の規制内容の標識を、標識令の規定する場所以外の「前方から見やすい場所」に設置(本件の第二標識)することは適法であり可能である。

勿論前述の理由から標識令に符合した標識と相容れない矛盾した標識を設置することは、違法となり無効となること多言を要しない。

前記のように、標識令に符合した標識(第一標識)と同一規制内容である標識令に符号しない場所に設置された標識(第二標識)は、右第一標識の存在を根拠とし、第一標識の規制機能を単に増補する機能を有するに過ぎないものであり、かつ、前記二の(二)において認定したとおり、第一標識が標識令第二条別表一の備考二に該当するものでないことから、第二標識は、施行令第一条の二第一項により適法に設置されているとはいえ、第一標識が欠除したとき、これを代位し、或はこれを補充して第一標識と同様の規制力を有する標識とはなり得ないものと解される。

(二)  検察官は、標識令は弾力的に解すべきであるとし、公安委員会が施行令第一条の二の第一項に規定するように「前方から見やすい場所」に設置さえすれば、標識令に符合しない場所に設置された標識にも規制力があると主張し、

(イ)  昭和四一年一〇月三一日大阪高裁第五刑事部判決(下刑集八巻一〇号一三二八頁)。

(ロ)  検察官請求証拠番号二四、二五、二六(横浜簡裁・東京高裁の各判決、最高裁決定の各謄本)。

をその主張の根拠としている。

しかし、右(イ)の判決の争点は、道交法にいう「交差点」とは、どの範囲を指すのかという点にあって、判決の解釈にたてば、標識は標識令に定める位置にあったケースであって、本件に適切ではないし、右(ロ)の方は、横浜簡裁が、公安委員会の告示に基づく標識に規制力を認める立場で判決したのに対し、東京高裁の判決は、問題の標識が標識令第二条別表一(311―A~E)関係の備考二の標識に当ると認定して、標識令に符合した標識として規制力を認めたもので、本件と事案を異にするものであるから検察官の主張は何れも当を得ないものと言わざるを得ない。

五  標識と人間工学について

なお、弁護人は、証人堀野定雄(神奈川大学工学部助教授人間工学専攻)の供述を証拠として、標識の有効要件について注目すべき弁論をなしているので、これについて一言する。

左折禁止標識は、速度のある自動車の運転者に対する規制であるから、当該交差点の手前で、左折の意思決定をする前、或は、既にずっと手前から左折をきめて走行してくる者に対しては、左折の合図を出す前の段階で、その交差点が左折禁止であることを知らしめなければならない。

特に左折禁止は、右折禁止に比して少く、例外的規制であって、運転者に対して、例外的行動を取るよう強いるものであるから、できるだけ早く情報(左折禁止)を伝える必要がある。

標識が「適切な場所」に設置され、しかも、一見してわかりやすい(誘目性、視認性、可読性)ものであることを要求されるのは、その性質上当然のことであり、そしてこのことは、道交法第四条第一項に基づく施行令第一条の二第一項も、「前方から見やすいように」設置するよう規定しているし、標識令も見にくくなる場合を避けるように規定している(別表一備考二)ことからも、十分肯定し得る理論である。

従って、標識は標識令に符合して設置されなければならないが、同時にそれは、具体的な道路状況下において、人間工学上の諸条件を充足するよう、設置に際して配慮されなければ、規制の効果を発揮し難いものとなる(この意味で、第一、第二標識を比較すれば、第一標識の方が、人間工学上の諸条件に近いものと言うことができる)。

六  標識の設置と規制力について

要するに、公安委員会による標識の設置は、標識令に符合して設置されなければならず、標識令に符合した標識のみが独立した規制力を認められることになるのである。

本件交差点における第二標識は、前述のように違法ではないが、これのみでは独立した規制力はなく、標識令に符合して設置された規制力のある第一標識の機能を、単に増補する機能を持つに過ぎないものであるから、公安委員会が、施行令第一条の二第一項に基づいて、同一の交差点に同一の規制を目的とした数個の標識を設置する場合には、必ず標識令に符合した標識を少くとも一つ以上設置しなければならない(本件の第一、第二標識の設置がこれに当る)ことになる。

従って、標識令に符合した規制力のある標識と相容れない標識を設置することは、違法であってできないことは、前記四の(一)記載のとおりであるが、又、標識令に符合しない標識をいくつ設置したとしても規制力は生じないことになる(勿論、これに従って走行することはかまわないし、むしろ好ましいことではあるがこれに反しても罰則を適用することはできない)。

本件の場合、第一標識が欠除していたのであっても、前記四の(一)末尾記載の理由により、第二標識が第一標識を代位したり、補充したりして、規制力を持つことはあり得ず、独立した規制力がないのであるから、第一標識が欠除した本件の場合、公安委員会は、直ちにこれを再設置すべきであったが、前記二の(一)記載のとおり、数回の上申を経て約三か年後に再設置したのであり、本件が第一標識の欠除後、約六か月後に起っていることを考慮するならば、公安委員会の適切な処置を欠いたことによって本件が生じたと言っても、あながち過言ではない。

七  結論―被告人の所為と刑事責任

かくして、第二標識に独立した規制力を認めることができない以上、これに違反して本件交差点を左折した被告人の所為は故意、過失を論ずるまでもなく(検察官提出の証拠の範囲では故意の認定は困難であるが)、これに反則金を課し、或はその不納付に対して罰金刑をもって臨むことはできないこととなる。

刑罰権の行使は、国民の自由、財産に対する侵害を伴うものであるから、その行使は、厳格な法律上の処罰要件を充足する場合に限定されるべきであるから、標識令に符合しない標識に対して、標識令に符合した標識に付与される規制力を類推適用することは、被告人に不利益であって許されない。

従って、被告人の所為は罪とならないものであるから、刑事訴訟法第三三六条により無罪の判決をなすべきである。

よって主文のとおり判決する。

(裁判官 藤巻純雄)

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